投稿者:大分 吉田 志津子(私の8月15日)

「うつ蒼と繁る木々の間のせまい空。一本の飛行機雲が線を描いていた。」
その風景は、8月15日が訪れると必ず脳裏に浮かぶ疎開先の景色だ。昭和19年10歳の私は家族と共に東京から両親の故郷「高知」へ疎開した。東京では学童疎開が始まっていたが、家族がバラバラになる事を「否」とした両親が決断したのだ。
その頃の高知市は警報がでていたものの、まあ平穏?だった。しかし上空は関西へ通り道だった為、「B29が、残りの爆弾を落として帰る」など空襲の頻度が増していった。20年には父の学校が焼失し、最大級の空襲もあった。防空壕にも危険が迫り、「蒸し焼きになるー!!」と脱出。燃えさかる火煙を避け、防火用水にくぐらせた子供用毛布を頭よりかぶり、火のない方へ、山の方へと逃げた。途中の河の土手には座り込んでいる人がいっぱいだった。山の中腹にたどりついた時は、どの位時間が経過していたのか定かではない。その後そこで朝露に濡れながらの野宿。その後、もっと山奥へトラックで移動することになり、荷台の荷物の間に落ちない様に紐で繋がれていた。
たどり着いた村の「若宮八幡社」の社務所・集会室で寝起きする事になり、そこで終戦を迎えた。「米軍が上陸してくるから女子供は市内に帰らない様に」と伝達があり、しばらくそこに留まった。それからは長く続く食糧難に大人も子供も大変だった。「いなご」も「芋の茎も」何でも食べた。大変な時を経て母は過労がもとで亡くなった。
成長期の食糧難と栄養不足の昭和一桁の人間は、長生きできないと言われたが、7人兄弟姉妹の私は、昨秋兄を亡くしたが、昭和元年生まれの長姉から19年生まれの妹まで健在である。それは大変な時代を乗り越えた賜かと思う。また丈夫な身体を与えてくれた両親に感謝しなければならない。
近頃は世界のあちこちで紛争があり悲惨な光景を目にする。思い出したくもないが、つい空襲の時の光景がよみがえってくる。争いのない世の中になりますように祈るばかりだ。
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