二度としたくない戦禍の体験 (続き) |
代表 上田 卓是 |
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<代表 上田 卓是> |
本年1月号1頁の記事で、私事ながら、終戦後の引揚げ話をご披露しました。 厚かましくも、本日はその続編としていくつか関連の出来事などをご披露すること、お許しください。
当時私は6~7歳。 終戦の地から難を逃れて、旧満州の奉天(現在の瀋陽)滞在時期(1945年冬 ) のこと:表の通りでは、八路軍と国民党軍の激しい戦いが連日交わされていた。
そんなある日、家の中では家族の一員の誕生日をひそかに祝うため、母が牡丹餅(おはぎ)を作っていた。
突然、外の兵隊数人が武装のままドヤドヤと侵入してきた。 家族一同震え上がる。 母が、そこにある牡丹餅を差し出すと、相手は取ろうとせずに、しばらくして“食え”と言う。
一口食うと、今度は、“全部よこせ!”と。 腹が空いていたのか、彼らは、アッという間に平らげてしまった。 貴重なご馳走はなくなったが、おかげで無事に終わり、皆で胸をなで下ろした。
奉天または新京(現在の長春)での話:日本人女性は、年寄りを除き、多くは断髪姿で男装に近かった。 当時52歳の母も例外ではなかった。
女性であることをロ軍兵士に悟られないためであったこと、子供心にも承知していた。 ダワイ!ダワイ!の言葉とともに思い出すだけでも、忌まわしいことである。
1946年7月、航空母艦の引揚船で佐世保港に到着した。直ちに上陸、無事帰国を果たすと思いきや、コレラの保菌者が数名見つかり、その人たちだけが上陸。
残りは、約1ヵ月間真夏の艦上生活となった。
そこでの生活:その1;どこで道具を調達できたかは定かでないが、艦上から釣り糸を垂れ、よく細魚(さより)などを釣り上げ、貧しい食事に花を添えた。
その2 ;真夏の太陽の下、甲板上で時々、子供相撲大会などが催された。 勝者には、うれしいことに乾パンの賞品がつき、特上のおやつにありついた。
帰国先熊本で、当面の安住先は避病院(ひびょういん)跡であった。 某村立小学校に年度途中での編入。 教科書がなく、父や伯父が筆で丹念に写本してくれたことを思い出す。 二度と戦禍を受けないことを希(こいねが)いつつ・・
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