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ひ と 言
<掲載年月:2010/01>
二度としたくない戦禍の体験
代表 上田 卓是
代表 上田 卓是
<代表 上田 卓是>
 B29の大編隊が爆音とともに頭上を通過するのを見ながら防空壕に駆け込む夢を見た。 それは12月8日のこと。 私事ながら、その夢から思い起した事柄で年頭の言葉に代えます。
 夢の場面は、終戦を間近に控えた1945年国民学校1年生で、当時の満州南部営口市街の家の前で遭遇した光景であった。
 当時我が一家は、両親世帯(五男・六男(私)同居)、長兄世帯4名、次男夫婦、および従軍中の三男、以上11名が満州の方々に住んでいた。 ほかに四男が内地で在学し、長崎の兵器工場に学徒動員中。 同年8月15日の終戦から約11ヵ月後、引揚船に乗るまで、流浪の生活が続く。 奉天(現:瀋陽)在住時には、家の前の通りで八路軍と国民党軍による市街戦が交わされた。 ロシア軍兵士の家宅侵入にも遭った。 露店の手作りアイスクリーム屋を親子連れで営み、家計をつないだことも・・・。
 1946年6月ごろ、三男を除く10名は、無蓋車編成の貨物列車を乗り継いで、北満から南部の葫蘆(コロ)島※1にたどり着き、無事を確かめ合った。 全身にDDTを浴びる消毒を受けた後、7月ごろ航空母艦の引揚船に乗り込んだ。 4名の子供を含め全員佐世保港に8月上陸し、誰一人残留孤児となることもなく無事帰国できた。 生涯、父母に感謝している。
 関東軍にいた三男は、シベリヤに抑留されたが、4~5年後無事帰国できた。 しかし、80余歳で他界するまで、抑留中のことはかたくなに口にしなかった。四男は、8月9日爆心地から1.3kmの三菱軍需工場で被爆し、幸運にも助かったが50年以上白血病などに苦しみ、今は83歳で健在。
 これは、ごく一例としての我が家が受けた戦禍ですが、二度と味わいたくありません。 皆さんもそれぞれ戦禍の体験をお持ちでしょう。 家族・地域の安寧と秩序、国家・世界の平和と安全を希(こいねが)いつつ、今後もできることから役割を果たしたいと思います。
※1 満州南部の引揚船基地