趣味のひろば 戻  る 掲載日:2011/05/15

ヨットに魅せられて!
投稿者:木村 和夫(9地区)
目 次 T)ヨットとの出会い U)ヨットは難しい  V)愛艇CASABLANCA思い出と航海記
  @ヨットで九州一周に挑戦   A九州リベンジクルージング

T)ヨットとの出会い

1993年にはじめて手にしたヨット
<1993年にはじめて手にしたヨット>
 それは、1992年(平成4年)の7月のことでした。仕事で淡路島の洲本に向かうために須磨からフェリーに乗った私は、デッキから何気なく海を見ていました。 すると1隻の小さなヨットが、須磨ヨットハーバーに入ろうとしているのが見えました。あんな可愛いヨットもあるんだ。 今までヨットと言うと帆船をイメージしていただけに初めて見る小型ヨットに驚きでした。  あれくらいなら自分でも買えるのかなあ〜、なんて漠然と思っていましたが、その後ヨットのことが頭から離れなくなりました。
 そうだ、ヨットをやってみようと思いましたが、ヨットなんか傍で見たことも乗ったこともなく、どうすれば良いのか分かりませんでした。その時、学生時代にヨットをやっていたという友人を思いだし、相談してみました。友人曰く、取り敢えず一度誰かに乗せてもらうことだ、そうだSさんが琵琶湖にヨットを持っているから乗せてもらったら? と言うことで、8月12日に琵琶湖で初めてヨットというものに乗ったのです。
 そのヨットは25フィート(約7.5m)ぐらいの小型艇でしたが、何とまあロープやら滑車などが一杯あって何が何だか分かりませんでした。 それでも岸を離れ沖合に行くと涼しい風が吹き、冷たいビールがことの他美味かったのを覚えています。帰るころになって、Sさんが「木村君、4級船舶免許を取ったら良いのに、そうしたらこのヨットを貸してあげるよ」と言いました。え?貸してくれるの?もし借りれれば妻や子供や知人を乗せてあげられるなあ〜、と思った私はすぐ、ヤマハのボート教室に申し込みに行きました。
 そして10月8日に無事4級船舶免許を取得することが出来ました。 Sさんは貸してやると言ってくれていましたが、車と一緒で免許を取ったらどんな小さくても、おんぼろでも欲しくなるものです。 車は車屋さんに行けばいいけど、ヨットは何処へ買いに行くのかなあ〜?係留する場所も要るしなあ〜。 そんな時運よく、会社の人がヨットを買い替えて前のヨットを売りたがっているとの情報が入り、早速お願いに行きました。  相手の方も(まさしく)渡りに船で係留権付きで売ってくれることになりました。1993年の初めに総額210万円で25フィートの中古艇を手にすることが出来ました。  これが私とヨットとの出会いで、この時にはますます深みにはまって行くとは予想だにしませんでした。その時私は丁度50歳。まさしく50の手習いでした。


U) ヨットは難しい
 
念願のヨットを手にしましたが、船底掃除と言う厄介な仕事が待っていました。クレーンに吊上げてもらって船台に載せ、船底やスクリューに付いた藤壺と古い塗料を落とすのですが、これが難題です。 なかなか落ちないし、上を向いての作業で体中しんどいし、本当に嫌になる作業です。やっとの思いできれいにした後は、塗料を塗って完成。最低延べ6人、2日がかりです。
 これですいすいとヨットを走らせるのことが出来るのかと思うと大間違い。何せ、セール(帆)を揚げただけではどちらに行くかも分かりませんし、また風がどちらから吹くかも分かりません。 えらい物買ってしまったなあ〜と思っても後の祭り。ヤマハのクルーザー教室に入り、一から操船を学びました。よしこれでOKだ。夏休みには家族で洲本に行こう。今から考えるとよくぞ無謀にも行ったことだと思います。
 その頃、今のような性能の良いGPSがなく日本無線から発売されていた小型GPSは、数字で緯度と経度が表示される物でした。その数字をもとに海図上にマークを入れ目的地までの方向を割り出し、コンパスを頼りに走らせるのが一般的でした。ところが、全部手作業なのでよく狂うのです。淡路に近づいていると思ったら堺の沖だったりして。一番頼りになったのは甲子園フェリーの後を付いて行くことでした。本来、夕方に着くはずが、着いたのは夜の8時ごろでした。家族もよくぞついてきてくれたものでした。ランタンの明かりの下で皆ですき焼きを食べたのが思い出です。 
無人島「鞍掛島」に15時頃到着
<無人島「鞍掛島」に15時頃到着>
 妻がもうヨットに乗ってくれなくなったのは、翌1994年の夏の事があってからです。仲間から、姫路の沖にある家島諸島。そこに鞍掛島と言う無人島があると教えてもらいました。ヨットと無人島、何となく合うではないですか。妻と二人で初めて明石海峡を越えてその島に行きました。着いたのは15時頃でした。スターン(船尾)からアンカーを打ち、島の小さな桟橋にバウ(船首)からの舫いを取りました。着いた時は大型のモーターボートがもう一隻いて賑やかでしたが、夕方になるとそのモーターボートは小豆島に向かうと言って出て行きました。
 夕闇が迫ってきました。明かりと言えば小さな島の頂上にある灯台だけです。誰もいなくなるとザ―ザ―と言う波の音がやたら耳に響きます。その波もだんだん大きくなってきます。ラジオを聴いていると台風が日本に向かっているとのこと。知らなかった訳ではありませんが、日本のはるか南だと思っていましたのに、海の上では少しずつ影響が出始めていました。妻が不安そうな顔をして、「お父さんもう帰ろう」と言いだしました。「そうだな、無人島に憧れて来たものの真っ暗で不気味だし何も良いことは無かった。帰ろう!」。帰り支度に入りましたが、アンカーが石に絡まり外れません。船を前後させながら必死で外そうとしましたが、いくらやっても外れずナイフでロープを切ってやっと島から脱出しました。
 一路、明石海峡方面を目指すのですが、波も高くなりエンジンのパワーも弱かったので中々進みません。妻は怖がるし「そうだ、知っている歌を歌おう!」、それから二人で知っている限りの歌を歌いました。やっとの思いで明石海峡を通過したのはもう夜明けでした。
 夜、8時ごろには島を離れているので8時間以上かかっています。今から思えば、明石海峡の潮の流れを無視して出たので、おそらく逆潮の中を必死で逆らって走っていたのでしょう。結局ホームポートの西宮に着いたのは朝の9時過ぎでした。 私は前日、朝5時に起きていましたので28時間一睡もせず殆ど舵を握り続けた格好になります。あれから、妻にヨットで何処かに行こうと言っても「私は遠慮します。お父さんは好きなようにして下さって結構よ」と言われるようになりました。
 ヨットは優雅、カッコイイ、何て思っていたら大間違い。一歩間違うとこのような怖い思いもします。それ以来、情報収集と安全対策は怠らぬようにしています。
 もし、皆さんが乗ってみたいとおっしゃるなら、お任せ下さい。安心して乗って頂けるように最大限配慮いたします。

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V)愛艇CASABLANCAとの思い出    広島竹原港へ入港のCASABLANCAUの動画こちら、動画 
1996年に買ったCASABLANCAU
<1996年に買ったCASABLANCAU>
真剣な表情で舵を持っています(筆者)
<真剣な表情で舵を持っています(筆者)>
座礁しキールがダメージを受ける
<座礁しキールがダメージを受ける>
 これもまた車と同じですが、最初はどんなに小さくても、おんぼろでも良いと言いながら、やっぱり周りの船を見ていると、あるいは怖い思いをするとグレードアップしたくなります。
 1993年に初めて手にしたヨットは年式も古く、新艇は無理だけど中古艇でもう少し大きいのをと思っていたら、1996年に29フィートで仏べネトウ社製の中古ヨットが売りに出されましたので、すぐ飛びつきました。よく、ヨットは高いのでしょと言われますが、中古艇だったので小ベンツぐらいの価格でした。勿論ローンです。CASABLANCAUです。
 それ以来今日まで乗っていますので15年。船として進水してからは22年になりますので、熟女の域に達しています。
 このCASBLANCAUとは、私が1999年〜2002年まで沖縄に転勤になった時も往復フェリーで運び沖縄の青い海を楽しみました。
 また、昨年3月で完全リタイアし、時間的に余裕が出来てからは2回も九州往復しました。1回目は2010年4月18日〜5月5日まで18日間で福岡を往復。2回目は8月4日〜9月14日まで40日間で長崎出島を往復しました。以下が、その航海記です。

@ヨットで九州一周に挑戦
 2010年4月26日、玄界灘を西に向かっていた我が愛艇のCASABLNCAU号は、ガッ―ン、ガリガリと言う衝撃と音で立ち往生しました。しまった!座礁した! 私だけでなく2名のクルーも思わずその顔から血の気が引きました。瞬間、私は一人のクルーに「船底を見てくれ!海水は入ってないか?」と。クルーは慌ててキャビンの中に入り確認して「大丈夫です」との返事。取り敢えず沈没は免れそうだ。しかしどうして脱出する?その時2隻の漁船が近づいてきました。
 私たちは大声で「座礁しました、どちらに脱出したらいいですか?」と大声を張り上げました。漁師さんはバックしろとの合図だったので、3人が片舷に体重をかけヨットを傾けた処でエンジンをフルスロットルにし、何とかその場の脱出に成功しました。
 今から18年前の50歳の時に初めてヨットを知り、全くの独学でヨットの操船を覚え、自分のヨットを手にしました。今のヨットは2隻目ですが29フィート(約8.6m)のこのCASBLANCAU号で九州一周するのが長年の夢でした。その夢の実現のために、4月18日の早朝5時に、私のヨットCASBLANCAU号は九州に向けて兵庫県西宮のマリーナを友人と二人で出港したのでした。
 初日は明石海峡を越え小豆島の南西にある土庄東港まで65マイル(約120km)の航行。本来風で走るヨットですが、生憎と微風でエンジンに頼らざるを得ません。昨年11月に載せ替えたヤンマーの新エンジンは快調で予定より1時間以上早く16時に到着。2日目も6時に出港して約52マイル(96km)先の尾道を目指しました。そして3日目は愛媛県の伊予灘に面した堀江です。
  私が退職後に1年間お世話になった某社のNさんが、この近く松山にいます。Nさんは退職後好きな釣りをするのだとモーターボートを手に入れ釣り三昧の毎日だとのこと。電話を入れると懐かしがってくれ、「ぜひ堀江の港まで行くよ」とのことでした。愛艇は15時20分に無事堀江に到着。間もなくNさんが現れ、久しぶりの再会を喜び合いました。おまけに名物のじゃこ天と愛媛のミカンをたくさん頂き早速ビールで乾杯しました。 
大分マリンピア武蔵にて
<大分マリンピア武蔵にて>
別府で最も古い竹瓦温泉
<別府で最も古い竹瓦温泉>
 4日目は天候にも恵まれ良い風も吹いていたので、思い切って伊予灘を横断するような形で国東半島の東にある大分マリンピア武蔵を目指しました。途中呉港に入る自衛隊の潜水艦に遭遇したりしながら15時に入港しました。そこで2日間の休養と言うことで別府の竹瓦温泉に、明治13年開業と言う別府で最も古い温泉ですが、入湯料が100円には驚きました。
 25日にはもう一人の仲間が阪からフェリーで新門司に到着、そこで合流し初めて難所である関門海峡を越え玄界灘に入りました。そして翌26日に福岡マリノアヨットハーバーを目指している時に座礁してしまったのです。今から考えればその場所(福岡県宗像郡沖)は航行をしないようにと海図に書いてあったのに、島と島の間が100m以上あり真中を通過すれば大丈夫だとの勝手な判断をしたことが大間違いでした。
 福岡マリノアヨットハーバーに入り早速クレーンで吊上げてもらい確認をしました。船底にあるキール(おもり、約1トンあり、これでバランスを取っている)の先端はかなり傷んでいるものの取り付け部分は大丈夫とのことでほ っと一安心したのです。 教訓、勝手な判断はしないこと。もうあのゴリゴリとした感触はこりごりです。 
これが玄界灘だ!!
 私たちが福岡マリノアに入港した26日から天候がおかしくなってきました。翌27日は朝からあいにくの雨。今日はフリータイムにしようと言うことにしました。Nさんは唐津湾に高島と言う島があり、そこの宝当神社にお参りすると宝くじが当たるらしい、とのことで唐津に向かいました。もう一人のKさんは、福岡には何度も来ているが太宰府に行ったことがないので、とのことで西鉄電車で太宰府に行きました。お土産は勿論、名物の”梅が枝餅”でした。
 私はヨットの中の掃除を終え、昼飯を食べるために支店のあった祇園に地下鉄で行きました。地下道で以前の仲間のSさんにばったり。聞けば福岡ファッションビルに移った仲間も今や呉服町に変わったとのこと。地上に上がり支店近くあった「ちゃんぽん屋」を探すがマンションになっていて影も形もありません。仕方なく地下のかつ丼屋に行くとここは営業中。オヤジや奥さんも11年前のことを思い出してくれ、「淋しくなったね、お互いに元気でね」との会話を残し店を出ました。
 28日は天気予報では強風波浪警報。29日、今日も警報が。マリーナのスタッフの助言もあり、一度博多湾の北端にある玄海島まで行き、外海に出て様子をうかがうことにしました。 
玄界灘の荒海
<玄界灘の荒海>
博多湾の中はせいぜい1〜1.5mの波だったのに玄海島を出て玄界灘に入ると西からの強風と3mを越える、うねりを伴った波に翻弄され仕方なくマリーナに逃げ帰りました。本来、壱岐、平戸、五島列島、長崎に行くのが目的で、その為福岡まで来たのに、、、。
 30日、今日、もし壱岐に行けなかったら仕方ない、引き返そう。と言うことで気合を入れ朝5時に出港しました。昨日と同じように玄海島を出ましたが、同じようにアゲインストの風に3〜4mの波。普通なら5時間でいけるのに、この調子じゃ夜になっても壱岐には行けない。仕方なく断腸の思いで舵を東に切り関門海峡に向かいました。東の方向は風と波に押されびゅんびゅん。夕方には新門司ヨットハーバーに到着しました。
 そこで、大阪から来た3隻のヨットに会いました。翌日関門海峡を越えて長崎、鹿児島、屋久島に向かうとか。初期の目的を果たせなかった我々3人は翌5月1日から帰路に着き5月5日には無事西宮に帰ってきました。
 福岡より西に行けなかったのは残念だったけど怪我もなく帰って来れたことに感謝。その上、各地でいろんな方に親切にして頂いたことは忘れられません。初めて入った大分のマリーナで、買い物に行きたいと言うと黙って「この車使って良いよ」と言ってくれたハーバーマスター。ハーバーから車で遠くまで買い物に連れて行ってくれた新門司のヨットマン。二次会に自分のヨットに誘ってくれたアメリカ人のヨットウーマン。車で国東半島の山の中にある「山香温泉」に連れて行ってくれた日本1周中のヨット「海光丸」のWさん。
 キールの修理も終わりました。日本1周中のヨットマンのブログを見ていると、五島列島で静かな海に囲まれ地元の新鮮な魚を食しているとか。 再度挑戦しなければと思う日々です。

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A九州リベンジクルージング
 2010年4月18日から我がヨットCASABLANCAU号にて九州の長崎を目指しました。しかしながら座礁と玄界灘の厳しい天候で退却を余儀なくされました。志し半ばで帰って来たことで悔しさが残りリベンジの機会をうかがっていましたが、8月4日早朝、私一人で西宮を出港しました。生まれて初めての単独長距離航海。出発が近づくにつれ、座礁した時のショックや、玄界灘の大波のことが思い出され不安が募ってきましたが、「えいやぁ!」で出発したと言うのが本音でした。
大分までは順調 
愛媛県上島町弓削港に入港
<愛媛県上島町弓削港に入港>
荒れる伊予灘
<荒れる伊予灘>
 1日目小豆島。2日目愛媛県上島町弓削。3日目広島県竹原。4日目愛媛県北条。5日目に国東半島の東側の大分マリンピア武蔵に無事到着しました。ところが台風4号が発生、東シナ海を北上中で対馬から日本海を東進するとの情報が入りました。丁度私が向かおうとする方向です。わざわざ台風にご挨拶に行く必要もないと思い国東半島にあるマリンピア武蔵にて台風をやり過ごすことにしました。結局4日間もいたために後のスケジュールが厳しくなりました。
妻が17日には佐世保に
 
妻も昔は良くヨットに乗ってくれましたが、一度怖い思いをさせてからヨットには乗らなくなりました。けど佐世保の九十九島は素晴らしいところらしいと言うとそれなら行くわ、と飛行機の早割チケットを予約していました。それが17日なので、私としてはどうしても17日には佐世保に着いておかなければなりません。逆算すると12日にはここを出て新門司まで行かねばなりません。
 幸いにして台風4号も過ぎ去り出港出来る状態になりました。出港直後は風、波ともに穏やかだったのに沖に出ると台風に向かって吹く風で、荒れだしやっとの思いで新門司マリーナに到着しました。翌13日には福岡に向かいたかったのですが、玄界灘の風と波が収まっていなとのことで潮待ち風待ちの一日になりました。もう後がない14日には福岡まで行かないと。
地獄で仏
 明けて8月14日。関門海峡を越えると西からの風と波が結構強い、この前に座礁した現場、地の島付近を横目で見ながら向かい風の中を必死で艇を進めました。途中、4月に姫島でお世話になったアメリカ人の女性リンダさんから「今夜は自分の係留している今津ヨットハーバーに泊めたら良いよ」との電話をもらいました。そのつもりで玄海島から博多湾に入る。そろそろ係留の準備をしようと船主のロープを用意しに行くとロープの先端が海にはまっている。 しまった!船が何度も波に叩かれた時に落ちたんだ!下手をするとロープがスクリューに絡んでいるかもしれない。そうするとエンジンが止まる!と思ったら本当にエンジンが止まってしまいました。何度かキーを回してもプッスといったきりかからない。
 えらいことになったなあ〜、ヨットは風で能古島の方に流されている。ここは浅いので早く遠ざからないと、と焦っていると遠くに1艘のヨットがこちらに向かってくるのが見えました。良く良く見るとリンダさんのヨット「さざなみ」でした。迎えに来てくれたのです。着くや否やCASABLANCAUに横付けし、流されるのを止めてくれました。そしてロープを結び、福岡マリノアハーバーに曳航してくれました。「地獄に仏」とは言いますが、もし「さざなみ」が来くれていなかったらと思うとぞっとします。 
リンダさん達と夕食を!
<リンダさん達と夕食を!>
呼子名物のイカ刺し
<呼子名物のイカ刺し>
 その夜はリンダさん夫妻と日本一周中のヨット「海光丸」の若林さんと4人で夕食を。そして若林さんと私はリンダさんのお宅に泊めて頂きました。何日ぶりでしょうかクーラーのきいた部屋で寝るのは。リンダさん有難う、感謝感謝です。
 翌日、ハーバーでメカニックにエンジンを診てもらいました。原因は「エアー噛み」ディーゼルエンジン特有ですが燃料系統に空気が混入するとエンジンが止まってしまいます。昨日、長時間走り燃料が減っていたところに波に叩かれたので空気が混入したようです。一番初歩的な故障で、それが分からず笑われてしまいました。
 修理のために時間を取られましたが、今日中に佐賀県の呼子(イカ刺しで有名)まで行かねばなりません。11時に出港。博多湾を出ると案の定向かい風と波。瞬間引き返そうかとも思いましたが、そんな余裕はない、それに呼子までは27マイル、50kmだから兎に角我慢しよう。ヨットとエンジンとオートパイロットとGPSを信じてじっと我慢の子でした。夕方5時過ぎ到着。夕食はやっぱりイカでしょう。久しぶりに呼子のイカを堪能しました。
 さて、翌26日は平戸まで。何とか平戸まで行っておけば17日には佐世保まで行ける。呼子の港を出るとまたまた逆風と波が。いい加減にしてくれ!と一人で叫びながら4時間20分耐えて長崎県平戸に到着しました。平戸はキリシタンとの所縁も深く、こじんまりとした良い町です。何より市がヨット等の受け入れに好意的なのが嬉しいです。
 2日間しぶきを浴びまくったのでヨットも私も潮でベタベタ。丁度その時激しいスコールが、お陰でヨットも私も潮が洗い流されさっぱりしました。17日、さあ今日こそ佐世保だ。妻に電話すると家を出て空港に向かうとか。よし、行くか。佐世保まで22マイル、41kmの航海。風と波もかなり収まり、九十九島に近づく。この島の奥に佐世保ヨットハーバーがあります。このハーバーに入るのが一苦労。何せ周りは島だらけ。操船を一歩間違うとまたまた座礁の憂き目に。GPSを頼りに慎重に進め無事到着しました。
 ほどなく妻も長崎空港に着いたとの事でひと安心。妻も周囲を山に囲まれ、青々とした芝生の広場のある佐世保パールシーの魅力にご満悦の様子でした。
 
とうとう長崎出島へ 
長崎出島に到着
<長崎出島に到着>
 妻が大阪に帰る前日の19日。天気予報を確認すると波は50cmとのこと。長い間ヨットに乗っていないが出島までヨットで行かないかと誘い、朝6時出港しました。
 外海に出るとこの間までの風と波は一体何だったのかと言いたいぐらい。本当に50cmの波で妻も久しぶりのヨットを満喫していました。12時には予定どうり長崎出島ハーバーに到着。ここはまるで神戸のハーバーランドにヨットハーバーがあるようなもの。街のど真ん中にあって都会的な雰囲気がすばらしいところです。思い返せば8月4日に不安でいっぱいの中出港し、毎日猛暑と戦いながら、今日はどこまでと船を進めるうちに、とうとう長崎出島まできてしまいました。自分でも、風と波に悩まされながら、よくぞここまできたものだと思いました。
 ヨットで世界一周した人もたくさんいますが、そんな人と比較するとたかだが長崎までなのですが、私にとっては大変なことでした。 私の人生においても記念すべき金字塔となりました。
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