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岡山への日帰りバス旅行(掲載月:2008/12)
報告:和田 亮吉 (6地区)
 11月21日(金)、岡山県閑谷学校、湯郷・奥津渓谷へ枚方拠点・交野拠点合同の日帰り旅行を行いました。  参加は45名、バス1台で午前7時40分に枚方を出発、中国道・山陽道から岡山県随一の名所といわれている  日本最古の藩営庶民学校である閑谷( しずたに )学校を見学、残念ながら2・3日前の寒波で楷(カイ)の木の紅葉が見られませんでしたが、中国から移植された楷の木の前で記念写真を撮りました。
   その後、湯郷で松茸ご飯・栗ご飯の食べ放題と秋の彩り膳の昼食を取り、吉井川源流の澄み切った流れと景勝を楽しみ帰路に着きました。
  途中小雨となった後、バスの前方に見事な虹が現れ日頃の疲れを癒してくれている思いがいたしました。

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閑谷学校
閑谷学校
日帰りバス旅行に参加の皆さん
*日帰りバス旅行に参加の皆さん>
楷(カイ)の木の下で!
*楷(カイ)の木の下で!>
ほとんど散っていた楷(カイ)の木
*ほとんど散っていた楷(カイ)の木>
奥津渓谷の紅葉をバックにパチリ
*奥津渓谷の紅葉をバックにパチリ>
奥津渓谷の紅葉が美しかった
*奥津渓谷の紅葉が美しかった
【参  考】
 楷(カイ)の木は大正4年(1915年)、農商務省林業試験場の場長であった白沢保美博士が、中国・曲阜の孔子墓所から「楷の木」の種を採取し、当時の農商務省林業試験場で育苗しました。 その後、日本国内の孔子や儒学にゆかりのある学校(湯島聖堂3本(雄)、足利学校1本、閑谷学校2本(雌)、多久聖廟1本(雄)など)に配られました。孔子にちなんで、閑谷学校では「楷の木」を『学問の木』と呼ぶようになりました。
  閑谷学校の歴史は、寛文6年(1666)に備前藩主池田光政公が国内巡視をして、静寂な山ふところに学問の理想郷を思い描いたことに始まる。同8年に光政公はこの地に手習所を設置、ついで同10年には重臣津田永忠によって本格的な学校建設が始まり、地名も閑谷と改められました。
 この学校建設にあたっての光政公の情熱は熱く、たとえ池田氏が移封となっても自立経営できるようにするなどの処置がとられていました。建築物の屋根瓦は備前焼が用いられていますが、そのために近くにわざわざ窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いて用意しました。
 この情熱は次の綱政公にも引き継がれていきました。現在残されている諸施設は綱政公と津田永忠によって元禄の頃に完成されたもの。しかし、そのデザインや建築技術は現在においても決してその輝きを失っていません。 また、この学校は領内の庶民と武士の子弟はもちろん他領の者も入学を許しており、光政公や永忠に始まる創学の精神はその後も連綿と受け継がれ、頼山陽などの学者文人がたびたび足をとどめるなど、岡山城下にある藩学校と並んで二大教育道場となっていました。 明治になってもその歴史と伝統は消えず幾多の人材を世に送りだし、今日に至っています。